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海山太郎 (大天龍) : ミニ英和和英辞書
海山太郎 (大天龍)[かいざん たろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

海山 : [かいざん, うみやま]
 (adv,n) sea and mountains
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
: [りゅう]
  1. (oK) (n) (1) dragon 2. (2) promoted rook (shogi)

海山太郎 (大天龍) : ウィキペディア日本語版
海山太郎 (大天龍)[かいざん たろう]

海山 太郎(かいざん たろう、1928年10月13日- )は、佐賀県藤津郡多良村(現在の藤津郡太良町)出身で、二所ノ関部屋に所属した大相撲力士である。本名は富永 昭三(とみなが しょうぞう)。身長181cm、体重102kg。得意手は左四つ、上手投げ、吊り。最高位は東前頭2枚目(1958年5月場所、1960年11月場所)。
== 来歴 ==
1948年(昭和23年)1月、大関佐賀ノ花とその一行が佐賀ノ花の出身地でもある佐賀を巡業で訪れた時に勧誘され、彼の内弟子として二所ノ関部屋へ入門。同年5月場所に於いて、19歳で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、出身地の藤津郡多良村に因んだ「多良錦」。
初土俵の場所では番付外と新序で続けて好成績を残したため、同年10月場所では、序二段に付け出された。
以来順調に出世し、初土俵から2年8ヵ月後の1951年(昭和26年)1月場所で新十両昇進、1953年(昭和28年)1月場所で新入幕を果たした。
4場所続けて幕内に在位した後、虫垂炎により十両に陥落したが、1場所で幕内に復帰。
再入幕の1954年(昭和29年)3月場所では、11勝4敗という好成績を残して優勝争いに加わるとともに、生涯唯一となる三賞(敢闘賞)を受賞した。
長身で均整が取れた体格に目鼻立ちがはっきりとした美男力士で、酒豪として知られた。大阪場所の宿舎に泥棒が入った時は、最初に酒の心配をしたというエピソードが残っている。
左四つからの上手投げや吊りを得意とし、弟弟子である後の横綱大鵬(納谷)が入門して間もない頃は、その教育係を務めた。
1961年(昭和36年)7月場所で2勝13敗と大きく負け越し38場所連続で守った幕内から陥落後、再起を図ったが以降は幕内復帰を果たせず、1962年(昭和37年)1月場所限りで引退した。
引退後は、友綱親方(元小結巴潟)が所有する年寄名跡の熊ヶ谷を借り受けて襲名し、二所ノ関部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たった。
その後、年寄・浜風に名跡変更したが、1964年(昭和39年)5月場所限りで角界を去った。
廃業後は、東京都港区赤坂で寿司屋や同大田区で割烹料理「海山」、群馬県吾妻郡草津町でペンション「ペンションタロー」を経営した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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